私は中央小学校に通っていました。お堀の水は冬になると凍り、小学生なら充分乗れる厚さになっていましたが、最近では堀の水が凍った話など聞いたことがありません。お堀で網をもって小魚やオタマジャクシを採ったり、スルメに糸を縛り付けて、岸から垂らすとザリガニがたくさん採れました。お堀の水は一体何処からくるのだろうか?湧き出てるのかな?と不思議に思いました。

 昨年の春に高崎市のジオラマを見に行った時に長野堰を語り継ぐ会の人からお堀の水は長野堰から取り入れているという話を聞きました。そして長野堰と高崎市の発展は密接な繋がりがあるという事がわかりましたので、受け売りですが皆さんにもお知らせしたいと思います。

 高崎の西には烏川、東には井野川が流れています。過去の浅間山の大噴火による泥流のために高崎市街は台地状となり両河川に挟まれています。この台地を水で潤し田畑を造るために築かれたのが長野堰用水です。開削の歴史は古く戦国時代の箕輪城主長野公が現在の形を造ったと言われています。その後の支配大名によって整備がなされ、現在は榛名町本郷の烏川で取水し、南東方向に流れ住吉町で一部を高崎城の掘割に分水しています。

 長野堰のおかげで高崎台地でも耕作ができ人が住むようになりました。家並みができ生活用水としても使われました。前橋は豊富な地下水がありましたが長野堰の水の方が染色に適していたそうです。高崎の町は長野堰の豊かな水のおかげで染色をはじめとした産業が起こり商都としてのその後の発展に繋がりました。城東小の南側で円筒分水堰により地獄堰、上中居堰、矢中堰、倉賀野堰の4つに分水します。水利の乏しいこの地区では干ばつの度に争いが起きていましたが、この4堰に公平に分配できるようにしたのが円筒分水堰(1962年)です。世界かんがい施設遺産に登録されています。ナショナルジオグラフィックでも紹介されたことがあります。上中居付近の堰では用水路が石組みだったころは蛍が飛んでいたそうです。
 

うめやま医院 高崎市 泌尿器科