毎年、終戦の日の式典を見るたびに今の日本の平和をしみじみと思います。当院に通院する患者さんの中でもシベリアで捕虜として抑留された人、マレー半島で生き残った人など何度か当時のお話を聞く機会がありました。私の祖父はシベリアで工兵として戦場に出ていました。身体が大きかったので橋を造る時に自分たちが支柱となって橋を支えて、上を馬や兵隊が通過していったという話を聞いたことがあります。小学生だった頃に夕飯の時に戦争の話を時々聞いていました。戦争を体験した人の話はこれからの時代益々貴重となっていくと思います。
私がこれまで国内を旅行した中で感慨深かったところが3か所あります。広島の原爆ドーム、姫ゆりの塔、知覧でした。
広島の原爆ドームは教科書にも載っていたし、いろいろな機会に写真で見たことはありましたが、実際の破壊された建物や、人間が飛び込んだという川をみると、当時の写真とともに原爆の恐ろしさが身に染みてきました。昭和20年8月6日の原子爆弾投下によって起こったことを後世に残さなくてはいけません。
姫ゆりの塔は修学旅行や個人旅行など行った人はたくさんいるでしょう。私も那覇空港について沖縄の眩しい太陽の下、熱い空気の中、リゾート気分で姫ゆりの塔に行きましたが、施設の中に入って一気にリゾート気分は打ちのめされました。沖縄で実際に戦争があったという事実、女学生たちが自害したという洞窟、私が知らなかったことが余りにも大きかったことに気づかされました。目頭を熱くした人も多いでしょう。姫ゆりの塔から那覇市内に戻る車の中で見る木々の緑やマンションの立つ丘、いたるところが実際の戦場であったという姿が想像されます。沖縄戦は昭和20年3月26日から始まり、日本軍、連合国軍、民間人を含めた戦没者は20万人にのぼったそうです。国道からちょっと横道を入り“普天間飛行場”をのぞける丘に連れて行ってもらったことがあります。鉄条網の向こうに巨大な滑走路と施設が拡がっていいました。鉄条網越しに見るのは沖縄の中にある外国でした。国際通りや牧志の公設市場、リゾートホテルや海岸は観光客の見る沖縄であり、実際の沖縄の良さも大変さも住んでみないと分からないのだなあと感じます。沖縄返還から長くの月日が流れました。内地にいて沖縄の人々の苦労を忘れていたことに気がつかされます。
知覧に行ったのは2泊3日で鹿児島旅行に行った時でした。鹿児島市内から開聞岳、枕崎海岸、を回り知覧に行きました。武家屋敷を見に行ったのですが、そこには特攻平和会館というのがあるのを偶然知り足を運びました。知覧には特攻隊の基地があり、そこから少年兵が片道分の燃料を積んだゼロ戦に乗って出陣したのだそうです。少年兵の多くの写真、家族に残した手紙、軍服、数々の形見、…..。姫ゆりの塔は女性が犠牲になりましたが、知覧には祖国のために犠牲になった多くの若い男性の姿がありました。特攻隊で犠牲になった人は1036名、知覧から出陣した人は439名、群馬県出身者は24名だそうです。海から拾い上げたボロボロになったゼロ戦、復元した隼戦闘機、飛燕などが展示されています。思いのほか小さな飛行機で、こんなので遥か遠くまで海の上を飛んで行ったものだと思います。話でしか知らなかった特攻(カミカゼ)の実際の姿を身近に見ることができました。