「地震、カミナリ、火事、オヤジ」
明治・大正生まれの親父は相当怖かったのでしょう。何と言ったって戦争体験者です。一方ならぬ苦労のあった人たちです。その点今のオヤジは私を含めて全然怖くありません。本を読んだり、聞きかじった知識で生意気は言えますが、肝っ玉は据わっていません。やはり体験の差は威厳の差となって現れるものなのです。
私が小学生の時でした。朝布団の中で眠っていたら、「ドカンッ」という爆発音とともに、家の2階の床もろとも私の体が浮き上がりました。浅間山の爆発だと直感的に感じました。少し遅れて、1階から「助けて~」と言う祖母の叫び声が聞こえました。爆発は自分の家だったのです。階段を駆け下りていくとカーテンは燃え、焦げ臭い硝煙のにおいが鼻を突きました。窓ガラスは割れ、畳の上はガラスが散乱しています。親父が火を消して、私は119へ電話しました。「落ち着いて..落ち着いて..」と頭の中で唱えながら電話しました。住所、名前、状況を話したつもりです。ほどなく消防車と救急車と警察もやってきました。火傷を負った祖父母は救急車で病院へ運ばれました。家はボヤで済みました。
現場検証の結果、爆発の原因はガス漏れでした。ガスのゴム管を鼠がかじってガス漏れしていたところで、朝の一服をしようと祖父がキセルに火をつけようとして、マッチを擦った瞬間に起きた出来事でした。祖父は顔と手足の火傷、服を着ていたところは大丈夫でした。ガス漏れがもっと早い時間から始まっていたら大惨事だったと思います。カーテンが燃える中“119”へ落ち着いて電話するのは小学生には無理でした。後で聞いた話ですが、私が電話したのは“110”で、警察から消防へ連絡したとのことでした。
もう阪神淡路大震災から23年になります。
あの日、朝のテレビをつけた瞬間、現場から中継される景色に誰もが目を疑いました。私が現場に行ったのは発生後2週間を経過した頃でした。リュックサックに寝袋と食事、医薬品、診察器具などを詰め、医師2人看護婦1人で出かけました。新幹線を新大阪で降り甲子園を過ぎたころから周りに傾いたビルが増え街並みが変わってきました。西宮からタクシーに乗り換え長田区役所に向かいました。家の残骸や倒れたビルが街路灯に照らされ、廃墟の街となっていました。区役所の階段は鉄筋がむき出しになり、壁や床のコンクリートにはひびや裂け目が入っています。所々で避難者が毛布にくるまって寝ています。当然我々の居所は無く、近くの公園で、テントを張り簡易コンロで湯を沸かしカップラーメンを食べて寝袋にくるまりました。周囲には公園に逃れてきた人々がテントで寝泊まりしていました。翌朝、寒さで目が覚め、テントから出て呆然です。朝焼けに映る街並みは一面、瓦礫と焼野原でした。
何時、大地震が起きるかわかりませんが、近い将来必ずやってくるに違いありません。しかし、自分の住んでいる場所は大丈夫のような気はしていませんか?その時はその時でどうにかなりそうな気はしませんか?しかし、
今皆さんが内服している薬はどうでしょうか?
多くのメーカーは首都圏に物流の拠点があります。首都圏の交通網がマヒした場合、地方まで薬剤が届くことはありません。問屋や医院の備蓄はわずかです。糖尿病や心臓病、薬が無くなったらどうでしょうか?少なくても自分の薬は2週間分は確保しておいた方が良いと思います。